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ようやく知ったイスラエルとパレスチナ 経済大国NIPPONと世界

2009/05/25 01:19


ようやく知ったイスラエルとパレスチナ

この土日、マイナーな映画館の「ポレポレ東中野」で
届かぬ声~パレスチナ・占領と生きる人びと~
の第一部・第二部を観てきた。

イスラエルとパレスチナ。
一体どのくらい知っているだろうか?

私はほぼ何も知らなかった。

最近の2008年末~2009年の頭まで
ニュースでガザ地区の空爆について
騒いでいたことは知っている。

しかし、「内戦をやっているだろうな」
くらいの認識で、何も知らなかったし
調べてもいなかった。

日本人のマジョリティがそんな感じでは
ないだろうか。

私も知ったばっかりだが、
今の状態として知っていること
映画を観て感じたことを書こうと思う。

==================================================

元々大昔の2000年くらい前は
ユダヤ人は今のエルサレムに住んでいた。

それが戦いに負け、世界各国ちりぢりに
なってしまった。

それから長い間、ユダヤ人は自分の国に
定住するということができないでいた。

第二次世界大戦後の1948年。
イスラエルを建国を宣言し、第一位中東戦争に突入。
パレスチナ全土の3分の2を奪う。

これが、今の今ままで火種になり続けている
きっかけの出来事だろう。

そして、1967年第三次中東戦争。
イスラエルがガザ地区、ヨルダン川西岸、東エルサレムを占領。

パレスチナ人はどんどん追いやられ
また支配されていく。

しかし、1993年、イスラエルのラビン首相と
PLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長が
暫定自治合意(オスロ合意)に調印。

イスラエルの支配から
やっと自治が認められパレスチナの人々は喜んだ。

が、このパレスチナ警察も実力不足の組織で
ハンドリングできず荒れていく。
悪さをする輩も増え、パレスチナ内でお金持ちと
貧乏人との格差が増え続けていった。

自治を認められたが、
イスラエルに入ることは制限していたので、
外に出て自由に商売などをすることができなかった。

パレスチナは内にも外にも問題を抱えていたわけである。
市民にとっては本当に最悪な状況だったろう。

イスラエルはその間もガンガン浸食。
パレスチナの土地に入植し、建物をたてて
ユダヤ人を入れていった。

自由も無くし、土地も含め奪われていった
市民のストレスは爆発していき、
各地で自爆テロなどが起こる。

そのテロを動かしていた中心が
「ハマス」である。

パレスチナ人の不満を一身に背負い、
イスラエル政府と戦うべくガザを支配下に置いたのである。(2007年)

そして2008年12月イスラエルがガザ地区を空爆。
多くの人が犠牲になった。

==================================================

とまぁ、ざっくりだが、流れはこんな感じ。

誰が悪いというのは自分ではわからない。
ただ戦争の悪い連鎖が起きていることは間違いない。

家族を殺された人が報復のために殺す。
またその殺された人が復讐する。止まらない。

どちらの国でも、
何の罪もない子供がたくさん死んでいく。

いつの世も戦争は、金や権力、土地の争奪戦だ。
陣地を広げるために戦う。何千年経っても人間は
同じことを繰り返している。

胸くそ悪いが、それが事実。
今はただいろいろと知ることから始めようと思う。








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生んでもらい、最後を看取り、生まれてきてくれて、死を迎えるまでの全ての繋がりを 独り言をブツブツと・・・

2009/05/12 23:12


今日はひとつ歌を聞いて
思い出したことがあったので書きます。

去年死んだ広島のおばあちゃんの最後の数年は
痴呆症でした。

ある年に会いに行ったとき、
いろいろな事を忘れていく中で、
孫である妹の名前は出てこなくなっていました。

しかし、私の顔をみてすぐ「ああ。貴昌くん」と呼んでくれました。
なんかすごく嬉しかった。

そして、最後の最後まで
自分の息子である親父の事だけは憶えていました。

いつか、自分の親も歳をとり、
いつか、痴呆になるかもしれない

そして、そのまたいつか、
私も歳をとり痴呆になるかもしれない

だけど、
生んでもらい、最後を看取り、生まれてきてくれて、
死を迎えるまでの全ての繋がりを
愛していきたい

そう思いました。


手紙 
~親愛なる子供たちへ~

年老いた私が、ある日、
今までの私と違っていたとしても
どうかそのままの私のことを理解して欲しい

私が服の上に食べ物をこぼしても、
靴ひもを結び忘れても、
あなたに色んなことを教えたように見守って欲しい

あなたと話す時、同じ話を何度も何度も繰り返しても、
その結末をどうかさえぎらずにうなずいて欲しい

あなたにせがまれて、
繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末は
いつも同じでも、私の心を平和にしてくれた

悲しい事ではないんだ、
消え去ってゆくように見える私の心へと
励ましのまなざしを向けて欲しい

楽しいひと時に、
私が思わず下着を濡らしてしまったり
お風呂に入るのを嫌がるときには思い出して欲しい

あなたを追い回し、何度も着替えさせたり、
様々な理由をつけて嫌がるあなたとお風呂に入った
懐かしい日のことを

悲しい事ではないんだ、
旅立ちの前の準備をしてる私に
祝福の祈りを捧げて欲しい

いずれ歯も弱り、
飲み込む事さえ出来なくなるかも知れない

足も衰えて立ち上がる事すら出来なくなったら、
あなたが、か弱い足で立ち上がろうと私に助けを求めたように
よろめく私に、どうかあなたの手を握らせて欲しい

私の姿を見て悲しんだり、自分が無力だと思わないで欲しい

あなたを抱きしめる力がないのを知るのは辛い事だけど
私を理解して支えてくれる心だけをもっていて欲しい

きっとそれだけでそれだけで、
私には勇気が湧いてくるのです

あなたの人生の始まりに、私がしっかりと付き添ったように
私の人生の終わりに少しだけ付き添って欲しい

あなたが生まれてくれた事で私が受けた多くの喜びと
あなたに対する変わらぬ愛を持って笑顔で答えたい

私の子供たちへ

愛する子供たちへ





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「松浦貴昌の母」の日 人生の発想

2009/05/11 00:07


■松浦優子という母

母の日ということで
自分の母親について振り返ってみたいと思う。

旧姓、利根川優子。三人兄弟の次女。
新潟の能生町という山も海も田んぼある
大自然の中で育った。

利根川家は教育家系で、私からみて
おじいちゃんと伯父、叔母ともに、
小学校の先生で、私の母は幼稚園の保母さんだった。

その血をしっかり引いた私の妹の一人も
現在幼稚園で保育士をしている。

母は、かなり天然で、
いろいろ抜けているし頼りない。

機械音痴もひどく、いまだに
ビデオの録画もできない。

その反対に、植物や生き物については
かなり詳しい。

自宅は室内も室外もいつも
緑に溢れていた。

また、熱帯魚やハムスターなどの小動物や
犬などもいる大変賑やかな家だった。

そこで長男として生まれた私 貴昌だが、
母親の影響は大きかったと思う。

まず、25歳くらいまでまともに
活字を読んでこなかった私が現在では
かなりの量の本を好んで読んでいるのは母親のおかげだろう。

それは、小さい頃からかなり量の絵本の
読み聞かせをしてくれていたことが理由だと思う。

物心ついた時には、絵本は国内外のものが何百冊とあり、
母親がいない時でも読めるよう、
カセット付きの絵本などもたくさんあった。

だから、いる時は読み聞かせを聞き、
いない時でも勝手にカセットを引っ張り出して
絵本を開く子どもだった。

今思うとすごくそういう本などにお金を使う
親だったと思う。

図鑑や地図なども充実していたし、
早い段階で世界や日本の土地、
特産物や生き物にも興味をもった。

その中でも一番のお気に入りの本は
「サバイバル図鑑」。
魚の取り方やへびの食べ方、きれいな水の作り方など
イラスト中心に書かれていてとにかく興味をそそる本だった。

そんな本好きで育ったが、
外にもかなりアクティブに出る子だった。

遊びながら、
本で知ったことを外で試していたから
文学少年ではなかった。

ひとつ母親の考え方でおもしろいと思う例を
あげるが、

3歳くらいの子どもは好奇心が旺盛なので、
目を離すといろいろなところに
勝手にいってしまう。

そこで、私の母親はどこにも行かないよう手をつなぐ訳ではなく、
私の首から住所や連絡先の書いたプレートを下げさせて、
迷子になっても誰かが連れて帰ってくれるようにして
遊ばせていた。

おかげで、デパートの迷子担当者も大助かりしたと思う。

また、一般的に危ないところや危ない行動も
好きにさせていた。

生き物が好きでわんぱくだったので、
どぶ川に入ったり、木登りをして虫を捕ったりした私は、

どぶ川でヒルに噛まれたり、木から落ちたりして怪我をすることが
日常茶飯事だったが、それも手当はするが「危ないから汚いからダメ」と
言われたことはない。

そんなこんなで、
生き物が大好きになった私は、
たくさんの種類の生き物を捕まえ、家に持って帰った。

買ったものもあるが、ザリガニやメダカはもちろん
ウシガエルや亀、ひよこ、うずら・・・。

それらも親子一緒に楽しんで育てていた。

亀に関しては、長生きだったので途中私は飽きてしまったが
最後まで母親が育てていた。

植物に関しても、
プランター菜園はもちろん、近くに畑を借りて
野菜を作っていたので、無農薬野菜を食べて育った。

長い間住宅に住んでいたが、
ベランダでお米も作っていたし、
精米も家でしていた。

ということで、家にいても
自然の学びには事欠かなかった。

また、母親は仏道やスピリチュアルなことにも
詳しかったと思う。

自宅には、京都の弥勒菩薩の写真が飾られていたし(今も)、
母親によく言われたことで覚えていることは
「悪いことしたら自分に悪いことで返ってくる」
「良いことをしたら良いことが返ってくる」ということだった。

当たり前に神様、仏様はいるという
見えないものを信じる環境で育った。

だから、
「周りの環境や現状の全ては、自分がやったことの結果」
という考え方がいまだに染みついている。

好きなことは全部やらせてくれ、
勉強しなくても0点とっても怒ることをしなかった。

そして学ぶ楽しさを教えてくれ、
それが今の仕事の原動力になっている。

天然の部分も奇跡な人だった。

運動音痴を超えたところがあり、
キャッチボールで指を折ってしまう人だった。

それもグローブをしていた手ではない
手で捕ろうとしてだから意味がわからない。

また、屁が尋常じゃないくらい臭い。
これも伝説だが、ガス警報器がなったこともある。

あとは、大便でトイレを詰まらせたこともある。
大きく重たすぎて流れなかったこともある。

夫婦喧嘩をして泣きながら「家を出る!」と言って
出ていったが、その日に何もなかったように普通に帰ってきたり、
とにかくよくわからない人だった。

母親と喧嘩して
「このクソババア」と言うと、
「そのクソから生まれてきたウジ虫息子」と
反撃がきた。

まぁ、そんな母親の血を間違いなく引いているわけなので
いろいろ諦めもつく。

ということであらためて、この母の日に
優子さんに感謝したいと思う。

4人も子どもを育てて忙しいかったし、
最近は癌との戦いで大変だったと思うけど、
その分これからはゆっくり幸せに生きてくださいな。

また、次の機会には母親と真逆の
IT・機械・電気系で「見えないものは信じない」
という商売人の父親についても紹介しようと思う。


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