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「松浦貴昌の母」の日 人生の発想

2009/05/11 00:07


■松浦優子という母

母の日ということで
自分の母親について振り返ってみたいと思う。

旧姓、利根川優子。三人兄弟の次女。
新潟の能生町という山も海も田んぼある
大自然の中で育った。

利根川家は教育家系で、私からみて
おじいちゃんと伯父、叔母ともに、
小学校の先生で、私の母は幼稚園の保母さんだった。

その血をしっかり引いた私の妹の一人も
現在幼稚園で保育士をしている。

母は、かなり天然で、
いろいろ抜けているし頼りない。

機械音痴もひどく、いまだに
ビデオの録画もできない。

その反対に、植物や生き物については
かなり詳しい。

自宅は室内も室外もいつも
緑に溢れていた。

また、熱帯魚やハムスターなどの小動物や
犬などもいる大変賑やかな家だった。

そこで長男として生まれた私 貴昌だが、
母親の影響は大きかったと思う。

まず、25歳くらいまでまともに
活字を読んでこなかった私が現在では
かなりの量の本を好んで読んでいるのは母親のおかげだろう。

それは、小さい頃からかなり量の絵本の
読み聞かせをしてくれていたことが理由だと思う。

物心ついた時には、絵本は国内外のものが何百冊とあり、
母親がいない時でも読めるよう、
カセット付きの絵本などもたくさんあった。

だから、いる時は読み聞かせを聞き、
いない時でも勝手にカセットを引っ張り出して
絵本を開く子どもだった。

今思うとすごくそういう本などにお金を使う
親だったと思う。

図鑑や地図なども充実していたし、
早い段階で世界や日本の土地、
特産物や生き物にも興味をもった。

その中でも一番のお気に入りの本は
「サバイバル図鑑」。
魚の取り方やへびの食べ方、きれいな水の作り方など
イラスト中心に書かれていてとにかく興味をそそる本だった。

そんな本好きで育ったが、
外にもかなりアクティブに出る子だった。

遊びながら、
本で知ったことを外で試していたから
文学少年ではなかった。

ひとつ母親の考え方でおもしろいと思う例を
あげるが、

3歳くらいの子どもは好奇心が旺盛なので、
目を離すといろいろなところに
勝手にいってしまう。

そこで、私の母親はどこにも行かないよう手をつなぐ訳ではなく、
私の首から住所や連絡先の書いたプレートを下げさせて、
迷子になっても誰かが連れて帰ってくれるようにして
遊ばせていた。

おかげで、デパートの迷子担当者も大助かりしたと思う。

また、一般的に危ないところや危ない行動も
好きにさせていた。

生き物が好きでわんぱくだったので、
どぶ川に入ったり、木登りをして虫を捕ったりした私は、

どぶ川でヒルに噛まれたり、木から落ちたりして怪我をすることが
日常茶飯事だったが、それも手当はするが「危ないから汚いからダメ」と
言われたことはない。

そんなこんなで、
生き物が大好きになった私は、
たくさんの種類の生き物を捕まえ、家に持って帰った。

買ったものもあるが、ザリガニやメダカはもちろん
ウシガエルや亀、ひよこ、うずら・・・。

それらも親子一緒に楽しんで育てていた。

亀に関しては、長生きだったので途中私は飽きてしまったが
最後まで母親が育てていた。

植物に関しても、
プランター菜園はもちろん、近くに畑を借りて
野菜を作っていたので、無農薬野菜を食べて育った。

長い間住宅に住んでいたが、
ベランダでお米も作っていたし、
精米も家でしていた。

ということで、家にいても
自然の学びには事欠かなかった。

また、母親は仏道やスピリチュアルなことにも
詳しかったと思う。

自宅には、京都の弥勒菩薩の写真が飾られていたし(今も)、
母親によく言われたことで覚えていることは
「悪いことしたら自分に悪いことで返ってくる」
「良いことをしたら良いことが返ってくる」ということだった。

当たり前に神様、仏様はいるという
見えないものを信じる環境で育った。

だから、
「周りの環境や現状の全ては、自分がやったことの結果」
という考え方がいまだに染みついている。

好きなことは全部やらせてくれ、
勉強しなくても0点とっても怒ることをしなかった。

そして学ぶ楽しさを教えてくれ、
それが今の仕事の原動力になっている。

天然の部分も奇跡な人だった。

運動音痴を超えたところがあり、
キャッチボールで指を折ってしまう人だった。

それもグローブをしていた手ではない
手で捕ろうとしてだから意味がわからない。

また、屁が尋常じゃないくらい臭い。
これも伝説だが、ガス警報器がなったこともある。

あとは、大便でトイレを詰まらせたこともある。
大きく重たすぎて流れなかったこともある。

夫婦喧嘩をして泣きながら「家を出る!」と言って
出ていったが、その日に何もなかったように普通に帰ってきたり、
とにかくよくわからない人だった。

母親と喧嘩して
「このクソババア」と言うと、
「そのクソから生まれてきたウジ虫息子」と
反撃がきた。

まぁ、そんな母親の血を間違いなく引いているわけなので
いろいろ諦めもつく。

ということであらためて、この母の日に
優子さんに感謝したいと思う。

4人も子どもを育てて忙しいかったし、
最近は癌との戦いで大変だったと思うけど、
その分これからはゆっくり幸せに生きてくださいな。

また、次の機会には母親と真逆の
IT・機械・電気系で「見えないものは信じない」
という商売人の父親についても紹介しようと思う。


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「こころの絵本プロジェクト」紹介映像です。 人生の発想

2009/04/28 13:11


まただいぶ前の話になってしまいますが、

今年の1月18日の東京国際フォーラムでおこなわれた
「文化遺産国際シンポジウム」でトヨタ財団の取り組みとして
こころの絵本プロジェクトについて紹介がありました。

その時に何日も夜ナベして作った
プロジェクト紹介映像です。

ブログに紹介するのを忘れてました。。(汗)

私は、小さい頃ランドセルを忘れて学校行ったり、
幼稚園ではパンツを忘れる(身体検査の時も)子どもだったので
許してください。。。

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母親のリンパ癌の克服から私が学んだこと 人生の発想

2009/01/20 13:26


母親から悪性のリンパ癌が発見されたのは
2007年12月20日だった。

それから、年の明けた2008年の正月に
父親とともに3人で伊勢神宮にお参りに行った。

それもギリギリまで、母親が嫌がった。
病気にかかったショックと「安静」の二文字を
意識してのことだったのだと思う。

しかし、私が恐れたことは、
「心が病人になる」ということだった。

「病は気から」とはよくいったもので、

病気になったとき、周りが病人扱いし、
そして、本人も「私は病人なんだ」と思い
病気に心が負けていく。

年末に電話したとき母親は、
「めんどくさいし、しんどいから初詣は行きたくない」
と言った。

その声からは、
心が病人になりそうな気配を感じていた。

そして、伊勢神宮に無理やり連れて行ったのだが、
「行ってよかった」と笑顔で言ってくれた。

それから程なく
母親の放射線治療と抗ガン剤治療が始まった。

ガン細胞も自分の細胞も殺すという
過酷な闘病生活。

母親がいる名古屋と私のいる東京との距離。
私にできることは、自分が心配かけないよう元気でいることと、
祈ることだけだった。

癌のことを聞いた2007年12月20日から
毎日お参りした。
朝行けなかった時は、仕事終わった夜中でも
神社に行って祈った。

自分にはこれしかできないから。

そして、祈りは通じた。

2008年の終わりには、癌も治り(昔通りとまではあと数年かかる)、
治療で抜けた髪の毛も戻ってきた。

今回のことで母親がどう感じ、どう思ったかは
わからないが、親と子の会話は、
「まだまだ生きろということだね」と短いものだった。

生と死。
それは、常に隣り合わせだと思う。

そして、生きていることも当たり前でない。
だからこそ、今をどう生きるのか?

「死ぬまで、生きる」ことを決意する。


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誰でも例外なく愛されている存在だということ。 人生の発想

2008/05/03 23:50


人間は、誰でも例外なく愛されている存在です。

今の日本では、地域コミュニティーのつながりが薄れてきて、
隣の人の顔や名前を知らなかったり、

仕事仲間も会社の中だけの関係でプライベート付き合うことはなく、
心からの本音を話すこともない、そんな環境の人が多いと思います。

日本人は欧米人に比べて会話の表現だとか、
感情を表に出しにくい民族かもしれません。

我慢強いといえば聞こえがいいですが、
表に出さない性格が災いし外にストレスを発散することも苦手で、
溜めてしまう人が多いことが、鬱や自殺者の増加に現れていると思います。

東京の街で暮らしていても、
通勤でギュウギュウの満員電車に揺られ、
すれ違う人と肩をぶつかっても何も謝らない。

仕事が終わった後、コンビニに寄って遅い晩飯を買い、
誰もいない一人暮らしのアパートに帰ると、
寂しさを紛らわすためにテレビをつけ、ビールを開ける。

だけど、気がつくと虚無感や孤独感が消えない。。

以前は私にもそんな時期がありました。

しかし、今は違います。
環境が変わったかといえば、そうでもなく、
仕事で遅くに帰って、誰もいない部屋も一緒です。

明らかに変わったといえば、今は心の感情を
顔の筋肉をフルに使って表現できるようになりました。

「楽しい!」
「嬉しい!」
「ありがとう!」と素直に言えるようになったからです。

では、何が変わったのか?
それは、決して一人ではないことに気がついたからです。

それは、物理的に恋人がいるだとか、
友人がいるだとかということではありません。

ただ、いま生きていることで、
一人ではないと感じ安心できたからです。

これは、ノウハウだとか、手法で解決するようなものではなく、
気づくだけで、感じるだけでいいのです。

“誰でも例外なく愛されている存在”だということを。

本当に愛されていなければ、
十月十日をお母さんのお腹の中で過ごすことができず、
生まれてくることもできません。

本当に嫌だったら、中絶という手段だってあるのですから。

だから、どんな人でも少なくとも、
生まれる瞬間に戻れば、愛され必要とされ生まれてきているのです。

愛は時間でも量でも量ることはできませんので、
この生まれる一瞬に愛された経験を感じ、大きくすることができます。

つまりシンプルに言ってしまえば、
生まれているということだけで、
愛されている存在ということです。

そして、人間は一人では生きていくことはできず、
常に愛されていてそこに存在しているということです。

常に人と接し、人を感じながら生きていますよね。

また、愛してくれているものは、
目に見えないものかもしれません。

ただ、そんな愛されている存在だから
自信を持って自分を愛してあげてほしいのです。

私の尊敬するミャンマーのお坊さんは、
面と向かって、
「私は、あなた以上にあなたを愛している」と言う方です。

それは誰に対してもです。

愛されている実感が、安心を生み、
感謝ができるところまでいくと、

全ては、ただ存在している(ある)だけで、
良い、悪いとつくり出していることすら
自分自身なのだと気がつきます。

真実はひとつ。
誰でも例外なく愛されている存在だということ。

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ハッピー孤児院の子供たち 人生の発想

2008/05/02 19:14


ハッピー孤児院の子供たち

カンボジアで一番はじめに行った孤児院は、
プノンペンから車で6時間くらい行った
アンコールワットでも有名な街、シェムリアップにあります。

私がこの孤児院を訪れるのは今回で2回目で、
前回は少しの時間しかいなかったこともあり、
子供たちが覚えているか心配でした。

それもいらぬ心配で、
孤児院に入ってすぐ「TAKA!」と声をかけてくれ、
すごく嬉しかったのを覚えています。

孤児院の子供たちをみれば、
子供たちを育て、親代わりをしている人の
人となりがみえてきます。

子供をみれば、親がわかると言われるのは、
日本でも一緒ですね。

ハッピー孤児院の子供たちといえば、
まさしく「キラッキラッ」でした。

純粋な笑顔で愛嬌もあり、
挨拶もできて、素晴らしい子供たちです。

着ているものはボロボロで、
自分の物と呼べるものは何も持っていない
親もいない子供たちですが、
日本の子供たちにはない「キラッキラッ」した純粋なものを
持っていると感じました。

そのハッピー孤児院で、物資を手渡しし
日本から持参したコマや野球、ダーツなどのおもちゃで
一緒に遊びました。

今回のカンボジアのもうひとつの目的である
絵本プロジェクトの読み聞かせについても
カンボジアのプリンセスやリトルプリンセスに協力してもらい
目をランランとさせながら聞き入る子供たちの表情もとれて
大満足でした。

また、次回は絵本を届けるときに
ハッピー孤児院には行く予定です。








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